わかりやすい文、うまい文
わかりやすくものを書く。実用書のようなもの。
うまくものを書く。いわゆる名著。
いずれか一つを選ぶ二択だと思う。
わかりやすくものを書くのは読む人の感覚めがけてストレートを投げるようなものだ。直接にものを指して、その必要性なりを訴える。
うまくものを書くのは行書で書道を書くようなものだ。
うまく書いてあるものを読みたい人は一語一語の感触に触れて感動できる。しかし、そうでない人には結局何が言いたかったの?となってしまう。直接は物事を指さずその過程を重要視している。
わかりにくいことをわかりやすく書くにはうまいやり方が必要だ。ただそうやって書いたものはうまい本(なり返事なりツイートなり)とは言われない。
ダイエット本と芥川龍之介を並べてどっちがうまい本か、名著かと訊いたら...訊くまでもない。
直球とは何かはもともと知っているから、わかりやすくものを書くには何回も何回も書いてみれば良い。
だけどうまい文章とは何かを僕たちはもともと知らない。だからうまい文章は何回も何回も読んでみる必要がある。どこで「はね」「はらい」「とめ」があるかを分析的に(無意識のうちであっても)捉えられるようになってから、うまい文章が書けるようになるのかなと思う。
太陽
とおくからみたら
舞台をひとりじめする紅一点
みんながきみのことを好きで
みんながきみのことをきらう
急に悲しみの名演技をみせて遠くへ行く
近くでみると
ひとりでぽつねんと
まっくらの中に佇んでいる
まわりとちがう自分を羞じらいながら
煌々とした強いきもちをもつ
きみはまさしく太陽だ
訳書の鑑賞について
翻訳。
ドイツ文学を読むのに独語を学んだりする。それは結構なんだが、独語を学ばないとドイツ文学を「味わえない」っていう人もいてそれは何か違う感じがする。
訳者には訳者なりの解釈があってその上で訳す。
ピンクフロイドのアルバム「Atom Heart Mother」は「原子心母」(直訳!)だがそれはそれでそう名付けた訳者の感覚を聞けば確かに味わえる。
イエスの名曲「Close to the edge」は「危機」だが、「危機の接近」と直訳したら果たして日本で名曲たりえただろうか。
「外国語独自の感覚を味わえ」と"原本至上主義者"は言う。
確かに英単語一つをイメージしても日本語でそれをイメージするときとは別のものを頭の中で想像する。「林檎」のイメージは黄色い斑点がまばらに付いたものを想起させ、「apple」からは光沢のある油絵のものが浮かんでくる。
でもこの感覚は僕だけの感覚かもしれないし、みんなの感覚かもしれないしで根拠がない。
僕たちは真に「apple」を味わえない。真に「privilege」を理解できない。
単語の硬さだったり重さだったりを味わうためにニュートラルな感性で理解する過程を取れないからだ。「概念イコール単語」の感覚はは母語でしか獲得できない。白い壁は「白い壁」の段階を経て「white wall」になる。
翻訳家はそこのところの難しさを我慢して我慢して我慢して我慢してやっとひり出した訳をはめている。
僕が思うに鑑賞は(ある程度正確な)訳書のあるものなら日本語で十分なされる。
研究は原本の鑑賞とともに訳書の鑑賞も要する。
訳書を読むことで僕たちは山の8合目にまで行くリフトに乗れる。鑑賞は個対山の対峙だからこのリフトは乗っても恥ずかしくないリフトだし、乗って楽をした方が時間が浮いてまた別の山を体験できる。そう言う考え方を「すべき」ではなく「できる」と言う話だ。
永遠を見た男
えいえんをみたおとこがいて
みみを切って、口をふさいだ
えいえんをきいたおとこがいて
口をふさいで、目をつぶした
えいえんを言ったおとこがいて
目をつぶして、みみを切った
なにもみてない
「ひとりぼっち惑星」という新しいSNS
数日前から話題沸騰のアプリ「ひとりぼっち惑星」は新しいコミュニケーションの形を示しているのかもしれない。
このアプリは、放置して一定量ポイントを貯めるとユーザー同士、ランダムで文通を送ることができるものだ。
似た種のアプリにメッセージボトルがあるがこのアプリは返信が可能、ひとりぼっち惑星は不可能である点が異なる。
SNSの代表であるツイッターを毎日のように僕も使用しているが、「つぶやき」をしながら、「これはつぶやきじゃないな...」と思うことが多々ある。
ひとりぼっち惑星はツイッターに変わって初めてユーザーが「つぶやき」を可能にするアプリだ。
(ぼくも2通だけ書いた)
このSNSの特徴
惑星から発信した電波にはアカウントという「住所」がない。
本来つぶやきは2個、3個と並列されないものであるし、まして発信者というタグなど付いていない。
アカウントを持たないことは「つぶやき」に役立っていると思う。
また上述した通り返信が不可能である。
ここにおいてようやく我々は相手を想定する必要のない発信ができるのだ。
これは会話、手紙だけでなくテレビも、ネットも成しえなかったことだ。我々は相手を気にせず「つぶやき」ができる。
どう使っていく?
このアプリは独特の世界観を持っている点も評価できる。
発信するときにもその世界観に触れざるを得ず、現実から我々は引き離される。
僕だけの体感かもしれないが「つぶやき」に愚痴が少ないような気がする。
これは書こうと思ってアプリを立ち上げた時、世界観に触れてイライラから引き離されるからではないか。
触れるだけでイライラから解放されるSNS。 あっ、斬新。
また、発信者が見えないことで僕たちは自由気ままに文章を書ける。
ツイッターで「ひとりぼっち惑星で見た文豪」がよく紹介されているのは「自由に」書ける基盤があるからではないか。
自由に文章が書けるSNS。(実は)斬新。
気づく
道を歩きながら
突然僕は止まって
ペンを走らせながら
走るペンが止まって
水色の球が割れた!
水色の球が割れた!
割れた欠片をじっと見てると
世界は急にひっくり返った
無題
今のぼくに
わからない世界がいっぱいあると
それが水になって
ぼくは泳いでいける
今のぼくに
仲のいい人がいっぱいいると
それが体をつくって
ぼくは歩いていける
そういうわけで
今日はつかれるまで泳ごう
今日はつかれるまで歩こう