浴槽の栓

思ったことを言葉にして残す

蓄えて太っていくこと


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知識を蓄えていくこと
=世界を狭くしていくこと
である。

とうぜん物理的に世界が狭くなった、広くなったというようなことはないが、それでも世界は子供の時より今狭くなっているように思えないか。

5歳の頃、自分の通ってる幼稚園の中を歩き回るだけでも1日じゃ足りないくらいの大きな世界だと思っていた。
それなのに今では自分の住む周りに窮屈さを感じている。

そのような現象は僕たちが知識を蓄えまるまる太ってしまったために起こっている。
今ではここには駅があり、駅の前にあるのはこういう店で、何が売っているといったようなことをだいたい知ってしまっている(あるいは知っているに等しい、すぐ知れる状況にある)。

なにに対してもそうだが「わからない」状態には広がりがある。
昔パソコンに触れた時「僕はこれでなんだって出来る」と思っていたが当然今では限界があることを知っている。と同時にパソコンという端末はいつの間にか机の上から輝きを幾分か(それでもまだ全てではないが)失ってしまった。


おそらく僕たちフィクションの世界に憧憬を抱くのもここから来ているのかもしれない。

フィクションの世界は、どうしても直に体験できないという性質上、どのような媒体で表現されようが知識として完結しない。

また、「わからないこと」も決して論理的に考えるのが難しいこと(気候や歴史、物理現象など)ではなく、肌触り、色合いといった誰でも考えられるような身近なものだというところも親しみやすさを抱かせる。

現実世界に対する知識は有限だ、駅ビルは確かにそこにあり、確かに一階では食品が売られている。それ以上の広がりはない。
また、現実世界に対する知識はときに難しい。歴史をしっかりと考えるには世界全体を昔から遡っていく必要がある。

「美味しいものを」「食べられるだけ」という知的好奇心が満たされ、満腹になったとき、眼前の世界はwonderを持ち続けていられるか。
それとも僕たちはファンタジーの世界に移住したければならないのか。