浴槽の栓

思ったことを言葉にして残す

ロボットは人を快楽に運べるのか

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知り合いがデートに行くと言って、生放送でその作法を相談しているのを見た。

その人は何回かそういう経験をしたことがあるようだがそれでも不安なのだろう。

ただ、誰が相手かもわからない状態で、また相手の性質も知らない状態でどのような助言をしても効くわけがないのは少し考えればわかることだ。



一対一で人と人は探り合う。

これはお互いが怪しいからではなく、一筋縄にはいかないとわかっているからだ。
他者との接触の意義はその価値観のすり合わせにあるのだから、一筋縄にいくような人間に関心はもたれない。

探り合うという緊張状態をほぐし、折り合っていくことでリラックスした状態にさせることがデートの、というか人付き合いの本質なのだと考える。

70億人がそれぞれの価値観を持つのだから、緊張状態には70億C2通りの場合が当然ある。

先のような相談によって得る処方箋のなんと脆弱なことか。
オロナインはなんでもかんでも効くわけではなく場合によっては患部をさらに悪化させうるのだ。

人によって対応策が違うからいちいち方法を練らなければならず、その度に相手の価値観を熟考する。逆にそのプロセスこそが恋愛の甘美だという人もいる。



ロボットと人との「対話」がどんどん可能なように技術が革新されている。

ロボットは抽象化された倫理観を持つことはあるだろうが、それは、人間レベルの価値観にまで成熟しない。
価値観の衝突のない会話は実体を持たず、それは「対話」とは形が同じであっても効果のないものだ。

幸い、我々は効果のないものの効き目を信用するようにできているから、まだまだロボットによる「対話」は試みられるだろう。

ただ彼らの技術革新とは無関係に対話が可能になることがある。

それは人間側の対話のあり方の変化である。

人と人との「触れ合い」が乏しくなった世界で、人間は対話のハードルを下げた。
物理的に接触していれば、心理的には離れていようが安心感を得るようになった。

ロボットによる対話が可能になる時代、恋愛の処方箋が真に効能を持つ時代が来るとすれば、それは心理的接触が不可能になり、従来の対話が壊れた時代である。