訳書の鑑賞について
翻訳。
ドイツ文学を読むのに独語を学んだりする。それは結構なんだが、独語を学ばないとドイツ文学を「味わえない」っていう人もいてそれは何か違う感じがする。
訳者には訳者なりの解釈があってその上で訳す。
ピンクフロイドのアルバム「Atom Heart Mother」は「原子心母」(直訳!)だがそれはそれでそう名付けた訳者の感覚を聞けば確かに味わえる。
イエスの名曲「Close to the edge」は「危機」だが、「危機の接近」と直訳したら果たして日本で名曲たりえただろうか。
「外国語独自の感覚を味わえ」と"原本至上主義者"は言う。
確かに英単語一つをイメージしても日本語でそれをイメージするときとは別のものを頭の中で想像する。「林檎」のイメージは黄色い斑点がまばらに付いたものを想起させ、「apple」からは光沢のある油絵のものが浮かんでくる。
でもこの感覚は僕だけの感覚かもしれないし、みんなの感覚かもしれないしで根拠がない。
僕たちは真に「apple」を味わえない。真に「privilege」を理解できない。
単語の硬さだったり重さだったりを味わうためにニュートラルな感性で理解する過程を取れないからだ。「概念イコール単語」の感覚はは母語でしか獲得できない。白い壁は「白い壁」の段階を経て「white wall」になる。
翻訳家はそこのところの難しさを我慢して我慢して我慢して我慢してやっとひり出した訳をはめている。
僕が思うに鑑賞は(ある程度正確な)訳書のあるものなら日本語で十分なされる。
研究は原本の鑑賞とともに訳書の鑑賞も要する。
訳書を読むことで僕たちは山の8合目にまで行くリフトに乗れる。鑑賞は個対山の対峙だからこのリフトは乗っても恥ずかしくないリフトだし、乗って楽をした方が時間が浮いてまた別の山を体験できる。そう言う考え方を「すべき」ではなく「できる」と言う話だ。