浴槽の栓

思ったことを言葉にして残す

本当にバリアフリーな駅

いつの間にか家に帰ってくるまでが1日と思うようになって、そのような感覚で1日の終わりを目下にしため息をついて、電池の切れたiPhoneへの呪詛を唱えつつ新幹線を待っていた。

ぼうっと前を見ながら数分くらいすると、棒を持った、丸いサラリーマンのような男が前の女の子(おそらく僕と同じくらいの年だ)にぶつかってきた。

女の子はスマートフォンをいじっていたが、ぶつかってきた男は明らかに「近い」距離で口を動かして何か言っている。この時、その男の持っている棒から男が盲目だということにやっと思考が至った。

考えてみると駅というものは全然バリアフリーではなかった。エレベーターこそあるものの、聴覚からの情報は駅の構造上潰されるし、点字ブロックも「黄色の線」になって迂闊に近づけない。

30秒ほど話した後に女の子は男を自分の前に並ばせた。

私はいつしかこの光景の虜となって、無心にそれを見ていた。

 

電車が来ると、女の子が判断したのだろう、男に腕を組ませ、また振り返って両手をとって乗車させていた。

僕は席に座ると少しは冷静になった。

即座に思ったのは僕にも何かできないかということだった。

例えば、女の子が先に降りるならば、誰かに交代する必要があるかもしれない。その時僕も交代相手を探すのに手伝えないか、とか。

そのような心配は杞憂で、僕と2人は同じ駅で降りた。

女の子と年の差が20ほど離れた、頭の少し禿げた男が腕を組んで歩く光景は、傍からみると異常であり、ともすれば危険に見えるかもしれない。

しかし僕にはそこにどこか懐かしい暖かい姿が見え、女の子もおそらく傍から見えるよりうんと成長してるように見えた。

改札を抜けて振り返った時には、女の子はおらず、男が棒を使いながら地下道へと入っていっていた。

 

以上の話は寓話性を持っている。ここで僕がこねくり回せばさまざまな訓(というほど立派ではないが)ができるかもしれない。しかし、これ以上考えて文章化することは控えたい。それは、この善意が本人の人間性からくるものだ、と考えてこの行いを讃えたいからだ。

 

身動きが取れない

現在温めているのは
コミュ力の話
文体の話
学問の話
CDアルバムのこと

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一つ目ではコミュ力を養うことはほかの言語学ぶようにやればいいんじゃないかというようなことを書くつもり。

二つ目は、文体が与える印象は割と大きくて、SNSの面白さはそこにあるんじゃないかって話。

三つ目は「都知事にでもなろうかな」って1フレーズ思いついて勢いで書き出した。

どれも途中で頓挫してなかなか書くの難しいね。

ロボットは人を快楽に運べるのか

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知り合いがデートに行くと言って、生放送でその作法を相談しているのを見た。

その人は何回かそういう経験をしたことがあるようだがそれでも不安なのだろう。

ただ、誰が相手かもわからない状態で、また相手の性質も知らない状態でどのような助言をしても効くわけがないのは少し考えればわかることだ。



一対一で人と人は探り合う。

これはお互いが怪しいからではなく、一筋縄にはいかないとわかっているからだ。
他者との接触の意義はその価値観のすり合わせにあるのだから、一筋縄にいくような人間に関心はもたれない。

探り合うという緊張状態をほぐし、折り合っていくことでリラックスした状態にさせることがデートの、というか人付き合いの本質なのだと考える。

70億人がそれぞれの価値観を持つのだから、緊張状態には70億C2通りの場合が当然ある。

先のような相談によって得る処方箋のなんと脆弱なことか。
オロナインはなんでもかんでも効くわけではなく場合によっては患部をさらに悪化させうるのだ。

人によって対応策が違うからいちいち方法を練らなければならず、その度に相手の価値観を熟考する。逆にそのプロセスこそが恋愛の甘美だという人もいる。



ロボットと人との「対話」がどんどん可能なように技術が革新されている。

ロボットは抽象化された倫理観を持つことはあるだろうが、それは、人間レベルの価値観にまで成熟しない。
価値観の衝突のない会話は実体を持たず、それは「対話」とは形が同じであっても効果のないものだ。

幸い、我々は効果のないものの効き目を信用するようにできているから、まだまだロボットによる「対話」は試みられるだろう。

ただ彼らの技術革新とは無関係に対話が可能になることがある。

それは人間側の対話のあり方の変化である。

人と人との「触れ合い」が乏しくなった世界で、人間は対話のハードルを下げた。
物理的に接触していれば、心理的には離れていようが安心感を得るようになった。

ロボットによる対話が可能になる時代、恋愛の処方箋が真に効能を持つ時代が来るとすれば、それは心理的接触が不可能になり、従来の対話が壊れた時代である。

蓄えて太っていくこと


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知識を蓄えていくこと
=世界を狭くしていくこと
である。

とうぜん物理的に世界が狭くなった、広くなったというようなことはないが、それでも世界は子供の時より今狭くなっているように思えないか。

5歳の頃、自分の通ってる幼稚園の中を歩き回るだけでも1日じゃ足りないくらいの大きな世界だと思っていた。
それなのに今では自分の住む周りに窮屈さを感じている。

そのような現象は僕たちが知識を蓄えまるまる太ってしまったために起こっている。
今ではここには駅があり、駅の前にあるのはこういう店で、何が売っているといったようなことをだいたい知ってしまっている(あるいは知っているに等しい、すぐ知れる状況にある)。

なにに対してもそうだが「わからない」状態には広がりがある。
昔パソコンに触れた時「僕はこれでなんだって出来る」と思っていたが当然今では限界があることを知っている。と同時にパソコンという端末はいつの間にか机の上から輝きを幾分か(それでもまだ全てではないが)失ってしまった。


おそらく僕たちフィクションの世界に憧憬を抱くのもここから来ているのかもしれない。

フィクションの世界は、どうしても直に体験できないという性質上、どのような媒体で表現されようが知識として完結しない。

また、「わからないこと」も決して論理的に考えるのが難しいこと(気候や歴史、物理現象など)ではなく、肌触り、色合いといった誰でも考えられるような身近なものだというところも親しみやすさを抱かせる。

現実世界に対する知識は有限だ、駅ビルは確かにそこにあり、確かに一階では食品が売られている。それ以上の広がりはない。
また、現実世界に対する知識はときに難しい。歴史をしっかりと考えるには世界全体を昔から遡っていく必要がある。

「美味しいものを」「食べられるだけ」という知的好奇心が満たされ、満腹になったとき、眼前の世界はwonderを持ち続けていられるか。
それとも僕たちはファンタジーの世界に移住したければならないのか。

Pink Floyd-狂気

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不朽の名作と呼ばれる物が、本にしろ音楽にしろあるわけだが、そういうものを楽しむには少しそれができた時代に立ち返る必要があると思う。

ピンクフロイドは「プログレ五大バンド」の一つとして知られるが、その音楽性は他の四つと比べていまいち掴みづらかった(一番掴みやすいのはおそらくELPかYesだろう)。

しかし突然に今日、狂気を聞いたところ、思いがけず感動したことを伝えたくなり、このように文字を打っている。

なぜ突然に魅力が発見できたのか。理由はこれを組曲として捉えたことだろう。
前に書いたように、この音楽ができたときは、トラックという概念は存在しなかった。一曲一曲をつながりの元で聞くことで意味が見えてきた。

このアルバムはイギリスでは薬をする時に使われると言われるほど難解とされている。
元リーダーであり狂気の天才であったシドバレットが薬物に手を染めた後に作られたことを思うとそのような聞き方がされるのももっともなのだが、「誰の心にも存在する狂気」を描いたという話を元に聞いてみると僕には違った像が見えてきた。


ジャケットにもあるプリズムは一本の光を波長別に分散させることができる。
このように僕たちのいる社会を分けて、遠いところから見たのが「狂気」なのかもしれない。

金(T5.Money)や時間(T3.Time)と言った生活を縛る様々な事象を分解し、楽曲の形で分析する。
そのような過程を経てのみ、生活から生じる狂気を根元より知ることができる。

狂気とは何かを知ることは一方では人間的好奇心に基づいた営みだが、好奇心に基づいた言動は現代社会においてはタブーとなることが多い。
われわれはアルバムを聞きながら社会からだんだんと逃れて、離れていく(T2.On the Run)(T6.Us and Them)。

社会から逃れた先にあるのは二つ。
一つは自己(T8.Brain Damage)であり、もう一つは自然である。
開放感の中で(ここに至るまでわれわれは社会における閉塞感自覚しなかったのだ!)日食(T9.Eclipse)を眺めて、アルバムは幕を閉じる。

「月」の捉え方と違いもまた日本人にとってこのアルバムの鑑賞を困難にしている気がする。
東洋では、白居易の「三五夜中の新月の色 二千里の外の故人の心」のように月は人と人とをつなぐものとして捉えられている。これは、目印として不変なものと月を捉えたある意味理性的見方とも考えられる。
一方西洋では人狼や魔女の例にあるよう月は狂気をもたらすとされる。確かに、満月と感情の関係についてはいろいろな説も挙げられているが、いずれにしろこれらは感性的に月を捉えている。

洋楽を聴く時には論理的に歌詞を追う必要があるようにも思えるが、以外と感性を敏感にさせることも重要なのかもしれない。


CDと産業音楽

CDやiPodは音楽のあり方をある面で変えたと思う。
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CD以前には音楽はレコードという形で聞かれていたわけだが、レコードとCDには音質だけではない差異がある。それは「トラック」という概念である。

むろんレコード時代にも一曲目、二曲目...という曲の区分はあったが、しかしその曲ごとの間隔は合間の数秒によってのみ認識されるものであった。
ボタンひとつで確実に次のトラックへ行けるようになった技術革新は、この曲と曲の間隔を遠ざけ、レコード時代には存在していた曲同士の緩やかな連続性を切ってしまったと言える。

またiPodはさらにこの動きを進めた。「シャッフル」機能だ。
この機能は本来A-B-Cの順で流れる音楽をA-C-BやB-C-Aの形で聞かせ、我々に同じアルバムからも予想しなかったような新たな像を浮かばせてくれる。
しかしこの機能は、言うまでもなく作者の意向を無視した視聴を可能にするものともとれる。

かくして僕たちは道を歩きながらボタンひとつで9の階乗通りから1個のランダムな像を聞き、トラックを飛ばすことも可能になった。

このような聞き方の普及は音楽のあり方を変えるのだ。

音楽は、現代においては産業としての存在が主であるから、その需要に応えた形で生産する必要がある。

すなわちシャッフルに強く、スキップされないような音楽を作る必要がある。
組曲を中心としたクラシックやプログレッシブロックといったジャンルの衰退(と言ったら怒られるかもしれないが、今現在少なくとも発展はしていると言い難い)はこれが一つの原因と思える。
またいかにも産業的なシングルカット的音楽(アーケードからサビが流れてくるような音楽を想像してほしい)が流行するのもこれが理由なのだろう。

「産業」としての音楽はアイドルCDが何枚もまとめて捨てられている様が批判的に伝えられるように非難される風潮にある。しかし、そのようなあり方はCDを利用し、iPodを利用してきたわれわれの技術進歩からくる宿命なのかもしれない。









新幹線という時間

30分。新幹線に乗って仙台まで行く時間は短い。
家から駅へ、駅から校舎へ行く時間は合わせても到底これに及ばないがそちらの方が長く感じることが多い。
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休みは短く、働く時間は長い。
この30分の短さを克服し平等な時間にしてやろうと考えるとこの時間を忙しくする必要がある。

本を読むことは一つ「忙しくなる」合法的方法のように思えるが、これにも欠陥がある。
それは30分後に中断が強いられるという点だ。
アニメやドラマと違って多くの本は30分でいいところまで進むようには出来てない。
(短編にしろ読まれる時間は読み手によってまちまちだ)
娯楽は総じて自分のタイミング以外で中断されると却って不快なものになる。

「読む」がうまくいかないのなら「書く」作業はどうだろう、うまく進むのか。
そう考えるのが読み書きを重ねて育った僕たちの自然な、健全な思考だ。
書く作業を、また書く予行(頭の中での執筆)をこの時間に行っていきたい。